安定的皇位継承について考える

特集 安定的皇位継承について考える

 

 皇位継承について与野党協議が五月十七日から衆参両院議長ら出席のもと始まった。平成十七年の「皇室典範に関する有識者会議」以来、実に約二十年ちかく経過する。そこで今回、本紙では安定的皇位継承について、それぞれの意見を特集し紹介したい。各論、皇室の弥栄を心より願ってのものだと信ずる。(編集部)

 

非難覚悟で敢えて叫ぶ、旧宮家復活養子縁組に反対
今さら聞けない皇室研究会顧問 村田春樹

 いま我が業界では「旧宮家復活養子縁組すべし」と叫んでいる御仁が多い。
 しかし、私は「旧宮家復活養子縁組み」の実現は宝くじ三億円当たる確率より低いと思う。そもそもあり得ないのだから、賛成も反対も意味がない。しかし反論を期待する気持ちも少しはある。最後までお読みいただき冷静かつ論理的な反論お叱りを期待する。
 
一、旧宮家復活養子縁組はなぜあり得ないのか
 
理由その一、誰が養子に応じるのか
 
 終戦後の昭和二十二年に臣籍降下した旧宮家で、一体誰が養子縁組みに応じるのか。眞子内親王殿下御結婚を巡り、お相手の小室家がどれほどプライバシーを暴かれバッシングを受けたか。しかもあの騒動は臣籍降下する先の問題にすぎない。国体にはなんの影響もない。
 
 しかし旧宮家復活養子縁組は違う。平民が皇族になるのだ。何千万人という「自称皇室の味方」が養子の人格とプライバシーを攻撃する。こうした分かり切った難事を承知で皇族になりたい人がいるだろうか。
 
理由その二 どの内親王殿下が婿養子を貰うことを肯ずるのか
 
 昨今週刊紙は内親王殿下のお相手の旧宮家の御曹司を次から次へと出してきては部数稼ぎしているが、全てでたらめである。内親王殿下のお母様は好きになった方と結婚して入内した。ご自分だけは皇統維持のため好きでもない男と結婚するのか。
 
理由その三、いったいどの政治家がこの問題に取り組むのか
 
「日本国憲法第十四条」は国民平等の原則が記されている。旧宮家復活は平民が皇族になることであり、この憲法十四条に抵触する可能性は否めない。
 総理大臣が靖国神社にも行けない体たらくの政府で、一体誰がこの「火中の栗」を拾うのか。
 
二、旧宮家復活養子縁組をなぜやってはいけないのか
 
理由その一 壬申の乱が再来する。
 
 旧皇室典範第四十三条と新皇室典範第九条養子を禁じている。
 いったいなぜ明治以降今日まで養子は禁じられてきたのか。明治二十二年の「皇室典範義解」に「本条は独り異姓に於けるのみならず、皇族互いに男女の養子を為すことを禁ずるは宗系紊乱の門を塞ぐなり。」とある。
 
 ではなぜ紊乱するのか。仮に内親王殿下が旧宮家の御曹司と結婚・養子縁組みして新宮家をお立てになり、そのお二人に男子がお生まれになったとする。一方、親王殿下も民間人と結婚されたとする。こちらにも男児がお生まれになる。皇位継承順位はどちらが上なのだろうか。
 
 もちろん親王殿下のお子様の方が上である。しかし、「内親王殿下のお子様はお父様が男系男子、お母様は天皇の内親王、どちらが天皇に相応しいのか」と言い出す輩が簇出するだろう。古代にはこういうことがいくらでもあった。
 
 これに乗じて様々な目論見が錯綜し、壬申の乱・保元平治の乱が再来しかねない。これが新旧皇室典範が養子を禁止している理由である。古来先人の言には重みがある、現代人はよくよく拳々服膺すべし。
 
理由その二 皇族が増えすぎる
 
 養子を認めると皇族が際限なく増えてしまい国庫を圧迫することになる。旧皇室典範で伊藤博文、井上毅らが養子を禁じたのは、皇族の増加を阻止する意味もあった。
 
 現在のように悠仁親王が天皇に即位されると、その時点で皇族が皆無になってしまうという危機の中にあって、いったい村田はなぜ皇族が増えすぎた過去のことを持ち出したのか、と思われるだろう。
 しかし皇室典範は百年の大計、まさに百年後を考えて制度設計しなくてはならない。
 
理由その三 君臣の義が乱れる
 
 前述の臣籍降下を謳った同じ増補の第六条の後半に「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とある。つまり臣籍降下は一方通行であり、その逆つまりいったん臣下になった者は皇族に戻れない、戻ってはいけないというものである。
 
 これは二千六百年の歴史を持つ我が皇国の不文律を、このとき臣籍降下と同時に成文化したものである。平安時代中頃に源姓を賜り臣籍に降下し、三年後に皇族復帰して皇位についた宇多天皇が史上唯一の例である。今、旧皇族の皇族復帰を叫ぶ人たちは、必ずこの宇多天皇を持ち出す。
 
 しかし、宇多天皇は一旦臣籍に降下したといっても源姓を賜った高級貴族だ。
 
 ところが、現代の旧宮家は降下して七十年以上経つ、しかも貴族に降りたのではなくただの我々と同じ平民となった。こうした人が皇族に「復帰」すれば、皇族の印象にも深刻な影響を与える。
 
 つまり元々の皇族に対して我々が漠然と持っていた、神聖性や畏敬の念が消失する。私の尊敬する神道皇室研究家の葦津珍彦先生が「君臣の分義」を強調していた。
 
 吉田松陰先生の「松下村塾の記」という有名な文書に、「君臣の義、華夷の弁」とある。昨日まで「臣」だった仲間が今日「君」になる。忠誠心に翳りが生じないだろうか。君臣の義を分かつ壁が無くなり、皇族の権威・歴史的血統的な正統性が揺るいでしまわないのか。君臣の間が曖昧にならないのか。二千数百年の賢人達の知恵の集積は重い。
 
理由その四 皇胤が担保されない
 
 さらに決定的な理由を挙げる。旧宮家の子孫が、本当に天照大御神・神武天皇系の血統を持っていない可能性を排除できないではないか。
 
 洵に失礼の極みであるが敢えて言う。御曹司の母親が夫ではなく他人の子を生して、何食わぬ顔して育ててきたかも知れない。繰り返すが失礼の極みであることは分かっている。
 
 八十年前に臣籍降下して一般人になった旧宮家、中には離婚再婚した家もある。仮に事実でなくても、反日勢力がそういう噂を流すだろう。
 
 一旦臣下に降りて俗塵に塗れたのであれば、百%の皇胤は担保できない。
 
三、まとめ養子論議は時期尚早
 
 旧宮家復帰養子論議を皇室はどうお感じになっているだろう。自分の家であっても、周囲の人から復活だの養子だの言われるたらどうだろうか。まさにマタニティハラスメント、不愉快である。私は皇室の御心中を思うと旧宮家復活論者に腹が立ってくる。
 
 今まだこの時点で養子を考えるのは時期尚早ではないのか。今回の有識者会議の報告にもある。「悠仁親王殿下の次代以降の皇位の継承については、将来において悠仁親王殿下の御年齢や御結婚等をめぐる状況を踏まえた上で 議論を深めていくべきではないかと考えます。」とある。
 
 当たり前のことだが私は敢えて叫ぶ。今我々はすべきことは養子云々ではない。悠仁親王殿下にお嫁に来る素晴らしい女性が出現するように祈ることである。皇室を誹謗中傷罵詈讒謗するネット界隈を沈黙させ、御結婚に関して静謐な環境をつくることである。
 
男系継承で皇統は永遠に続く
日本国民党代表 鈴木信行
 
 
 かつてマスコミは、皇太子妃時代の皇后陛下を週刊誌ネタとして批判してきた。
次代の天皇である東宮(皇太子)は、マスコミが揚げ足を取り批判の的となる傾向がある。愛子内親王殿下が、マスコミの標的とされていた時期もあった。
 悠仁親王殿下ご誕生の後は、皇室への批判を秋篠宮家に集中している。ここに皇室の権威失墜と皇統断絶への道を進めるという、反皇室勢力の遠大な戦略が読み取れる。
 元共産党員のユーチューバーらが、秋篠宮家、その中でも次代の天皇の姉君である眞子様に絞ってゴシップ報道するのも、皇室の権威失墜を狙う深謀といえる。
 眞子様へのマスコミ報道やネット動画を見ていれば、皇族との婚姻を忌避する者が出て来て当然だと思う。
 先祖の墓までほじくり返して批判されるのだから、皇室との婚姻が予想される家では、家族親戚に忌避反応も出る。誰でも暴かれたくない先祖の秘め事ぐらいある。皇后陛下も皇太子妃時代は散々マスコミのバッシングを受けたのだ。
 小泉純一郎政権時に、男系男子の皇統は途絶える寸前となったが、日本の神々がこれを救い、悠仁親王殿下のご誕生で皇統断絶の危機は潰えた。この時ほど、神国日本を実感し、奇跡を皇室が体現してくださったと思ったものだ。
 明治以降は皇室典範の定めにより、皇位継承順位が厳格に決められている。
 現在の皇位継承順位一位は皇嗣殿下、二位は悠仁親王殿下だ。この順位を変えて愛子内親王殿下を即位させることなど、考えることも恐れ多いと言わねばならない。皇位継承順位が定められたからこそ、現実問題として女帝は必要なくなったのだ。
 安定的な皇位継承の確保に関する懇談会が開かれ、皇室典範改正が論議される中で、国柄の基である皇室についての議論が喧しい。本来は国民が議論することではなく、皇族方で議論されるべき高度な問題なのだ。
 
 長い伝統と国柄に反する女系天皇への道を開いてはならないとする意見は、国民の中に根強く存在する。
 皇室が日本の文化・伝統・歴史の中心であるから国民精神の中に、男系継承の正しさを理解する意見が、サイレントマジョリティとして、積極的に声を上げぬ国民の中の意見として、国民意識の根底にあるのは確かだ。
 
 もちろん女系容認の声も多くある。それは国民に日本の正しい伝統としての男系継承を教えて来なかったからだ。
 フェミニズム全盛の社会規範の中で、女性の社会進出や男女同権思想が、女系継承容認へと認識を歪めている。
 
 また、外国の王室では女系継承されていることなど、日本の文化伝統歴史の前では理由とならない。
 
 男系継承は伝統として継続してきたから尊いのだ。理屈ではなく人皇初代神武天皇即位以来の伝統を、先人が守り継承してきたから尊く守るべきことなのだ。
 
 皇族を増やす必要性については、令和三年の有識者会議の報告書にある通りで、取り組むべき重要課題だ。
 その中で重要な事は、伝統に基づき女系継承は求めないとすることだ。
 
 現在、対処すべき問題としては二点だ。皇統に属する男系男子を養子縁組で皇族とするか否か。または内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することだ。
 
 さらに問題となっているのは、女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持するが、配偶者と子も皇族とするという意見だ。これは女系皇族と女系天皇に繋がる事になる策謀と考え、排するべきだ。
 
 七十数年前に皇籍を離脱した旧皇族を新たな宮家として復帰させることは、国民感情の中で抵抗があるとする意見がある。
 
 戦後七十九年に及ぶ皇族方の苦難の私生活を粗探しして、反皇室勢力の策略によるマスコミ攻勢を十分予想しておかねばならない。皇室典範改正と共に、皇室報道を規制し皇室を貶める批判を許さない法規制を立法すべきだ。
 
 旧皇族に連なる者が皇族に復帰したとしても、皇位継承順位に連なった者は、あくまで悠仁親王殿下をお支えする者である。実際に皇位継承者となる可能性が高い者は、これから皇族として生まれる若君だ。国民は新皇族の誕生を大いに歓待することだろう。
 
 旧皇族が復帰する場合は、宮家の数が問題となる。多くの宮家復帰は好ましくない。三宮家ほどの少数でいいのだ。皇室はいつの時代も国民の支持を受けてきた。
 
 宮家の数を少数と考えれば、現在ある宮家に旧皇族が養子に行くことが望ましい選択ではないか。
 ことさらに国民感情に配慮する必要は無いが、歴史に鑑みて国民と共に国を思うことが重要なのだ。多くの宮家復帰は国民感情に反し望ましくないと考え、伝統を守るうえでも必要ない。多くの旧宮家も復帰を望まないであろう。
 
 現在は悠仁親王殿下がお若いので、皇統断絶まで時間がある。危機的状況に向かいつつあるのは確かだが、皇祖皇宗の神々が歴史の断絶まで少しの猶予を与えてくれたのだ。
 
 悠仁親王殿下に男子が複数ご誕生され、揺るぎない皇統が永遠に継続される神国日本である体制作りを、国民はお手伝いするだけだ。基本にあるのは文化伝統歴史の継続だ。
 
日本再生は「男系絶対主義」より大和魂の復活だ
主権回復を目指す会代表 西村修平
 
 
下々の不敬
 
 皇位継承を巡る最大の問題とされるのが、男系か女系だが、私自身この問題に関してはどちらでも構わない。
 そもそもこの議論は、家督制度を巡ってであり、平たく述べれば他所の家である。他所の家の相続に他人が図々しく口を挟むのは非礼ではないか。
 
 しかも相手は皇室であられる。当事者であられる皇室の方々の御意見が全く国民に明らかにされない中、下々が何を畏れ多くも口出しするのか。中には繁華街で街宣車を繰り出し、デモを企画するなど「不敬」も甚だしい。皇室に対しての敬いが余りにも欠け過ぎている。
 
 「尊皇」や「承詔必謹」を標榜し、この問題について語るのであれば、天皇陛下の御叡慮をうかがうべきと主張するのが筋である。
 
「君民一体」の原則に反する男系絶対主義
 
 議論を開始する前提に、保守派は「神武天皇以来百二十五代、例外なく男系男子継承が行われて来た」とする「妄想」から目を覚まし、冷静に見解を発していただきたいことである。
 
  神話的な存在の人物を皇室の始祖と断定するのであれば、『日本書紀』や『古事記』の内容が全て歴史的事実とせざるを得ず、神話に遡る歴史に対して、「科学」を用いて土足で踏み込む様なものだ。
 
 これには相当な保守や熱烈な皇室信奉者でも躊躇するはずである。それは聖書に記されている言葉や記述を全て正しいとする「聖書原理主義」のようなものであり、この様なカルト的意見が皇位継承の政府有識者会議や与野党協議において幅を利かせていては、進む議論も進まず、纏(まと)まるものも纏まらない。
 
 彼ら「男系主義」に固執する保守派の中には、その理屈を正当化する為に「Y染色体」なるものを持ち出す者までいる。
 
 「Y染色体」とは、父親から息子に継がれていく染色体であるという。では、その科学的見地に基づいて「Y染色体」の過去を追って行けば、天照大御神にたどりつくのか。結果は自明である。
 神話に「科学」で踏み込めば、「皇統断絶」は未来ではなく、過去においても起きるのである。
 
 そもそもだが、「男系男子天皇絶対主義」を固持する保守派のオピニオンリーダーの櫻井よしこ氏、八木秀次氏たちや、その周辺の方達自身や、またはその親族・血縁者、さらにその周辺の友人・知人たちで、彼らが主張するところの「男系絶対主義」で家督相続を維持している方達がいるのか。ほぼ、いないはずである。「いない」というより、出来ないのである。
 
 皇室においても、幕府の将軍職においても、男系男子継承は側室や分家からの養子と一体であったのが歴史的事実だ。一般国民においても、養子・婿入りをもって家督を維持してきた。
 
 そもそも日本民族はシナ・朝鮮の男尊女卑に基づく家督制度とは無縁なのである。
 一億日本の庶民がそっぽを向いているシナ・朝鮮の家督相続の基となっている「男系主義」を、何故に保守を標榜する方達が、皇室に対して、これほど執拗にを強要するのか。
 
 中には「皇室には側室を復活させるべき」という者もいるというが、そうなれば国民と皇室において婚姻形態・家督相続形態が異なる形になるではないか。そうした事を国民はもとより、皇室が受け入れられるのか。
 
 民族としての「君民一体」の原則に甚だしく乖離するこの大いなる矛盾に対して、冷静かつ心穏やかに素直な気持ちで向き会って頂きたい。
 
女性天皇公認こそ日本文明の真髄
 
 我々がよく知る小説で映画化もされた名作に『夫婦善哉』(織田作之助・昭和十五年)がある。
 大阪北新地の老舗問屋が舞台で、放蕩息子の家庭を描いている。役立たずの長男を勘当し、家を潰さないため、跡継ぎとして婿養子を迎える話だが、日本の庶民生活からすれば、よくある話で特段珍しいものではない。
 
 日本民族として、我々庶民は「家」が存続の危機に陥った際には血筋より育ちを選択して来た。形式的な血統を重視しないのが日本文明であり、古くから言い伝わる「氏より育ち」がそれである。
 
 とりわけ日本の歴史を振り返った時に、八方十代の女性天皇がいらっしゃる。これは男尊女卑・「男系主義」のシナ・朝鮮では絶対にあり得ない事であり、ここにこそ日本文明と彼ら中華文明の決定的な違いがある。
 
 「男系主義」に固執する保守派の中には、これら御歴代女性天皇に対して「中継ぎに過ぎなかった」として矮小化する向きもあるが、歴史的事実と照らせば、その解釈は失当であるばかりか不敬である。
 
 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とした堂々たる国書をシナの隋皇帝煬帝に送り、シナの冊封体制から脱却した対等外交をされたのは女性の推古天皇であり、皇位継承の一世一代にして最大の祭儀である大嘗祭を始められたのも女性の持統天皇である。こうした女性天皇の存在こそ、日本にシナのような父系氏族制度がなかったことを体現しているのである。
 
 女性天皇、ひいては女系天皇を公認する事こそが、日本文明の真髄であるとの議論を大いに交わそうではないか。
 
 保守派をもって任じる人々から、「男系天皇があるから日本が安泰」だとか、「女系天皇で日本がなくなる」との話を聞くが、心ある人からすれば、我々がイメージして来た日本は疾うに無くなっている。
 
 危機とは何か。火事で言えばボヤが危機の段階、火災が発生すればそれは「危機管理」の失敗なのである。
 日本はこの三十年、永遠の「危機」を叫ぶオオカミ少年の陶酔に浸り、火災を放置して来た。今は焼け跡に立っていると称しても言い過ぎではない。
 
「男系絶対主義」より大和魂の復活を
 
 大東亜戦争において事実上の無条件降伏、シナ・朝鮮との領土・歴史認識問題での完敗、日米地位協定に基づく対米従属の深化、「失われた三十年」の国民生活の凋落などなど、これらは全て「男子男系天皇」のもとで続いてきた歴史の今である。女系か男系かを論ずるそれ以前に、我々が信じて来た「日本」が無くなったとの現実を真面目に受け入れようではないか。
 
 その上で、皇位の継承問題で日本は無くならない。「男系男子天皇」がご存在であれば日本は安泰という精神の慢心、他人任せの独りよがりが、日本を滅ぼしている。焼け野原に立って、なお「危機」を叫ぶ痴呆ぶりはもう止めよう。
 
 「男系絶対主義」を捨てて、街に出て大和魂を叫ぼうではないか。
 
 大和魂とは国難を前に燃焼・爆発する民族精神である。己の体裁を飾るアクセサリーではない。日本再生は大和魂の復活にある。