二の矢あると思うな一期一会の我らが運動(初代代表 山崎幸一郎)

 結党25年にあたり、我が党の初代代表であり「党祖」とでも言うべき山崎幸一郎先生が、結党直後、第14回参議院議員通常選挙を前にして書かれた党員への決意文を掲載させていただきます。「手探り状態」の中でも必死に愛国政党を作ろうとした当時の時代の空気を感じると共に、今でも色あせない運動の本質と覚悟が書かれています。(本紙編集部で最低限の再整理を行いました)

山崎幸一郎先生_平成9年

山崎幸一郎先生(平成9年)

 支那の俚諺に「二の矢あると思うな」というのがある。この言葉は「二の矢」「三の矢」があると思うと、「一の矢」に力がこもらないという意味で、主として戦争において、戦術的に勿論「予備隊」は必要ではあるが、戦闘的には最初から「予備隊」を当てにするのは許されない、という意味で引用されている。ちなみにこうだ。

 昔、支那(中国)に大変「親孝行」な青年があった。或る日、彼の父親が猛虎に襲われ(食い殺され)てしまった。復讐にもえたこの孝子は、急いで家に戻って裏庭の桑の木で弓を作り、父親の仇討ちに山へ出向き、先刻の虎を探した。

 ところが何と、その虎は彼の近接にも気付かず、ぐっすり眠っているではないか。まさに「天佑神助」と、孝子はここぞとばかりに弓をつがえ、一心不乱にその虎目がけて矢を放った。それはまさしく「一期一会」であり、「一矢必殺」の矢である。

 何とその「岩も通す桑の弓」で、矢は物の見事に猛虎の胴体深く突き刺さった。

 だが、その虎は身動きもしなかった。恐る恐る近寄って見れば、何とそれは虎にあらず「大きな岩石」ではないか。孝子はがっかりした。

 しかし、射かけたこの「桑の弓」の威力に驚き、試みに「二の矢」「三の矢」を射かけて見た。が今度は何れもあっさり弾き返されてしまった。

 言うまでもなく前者は、「一期一会」の必死の「弓矢」であり、後者は「千期万会」の在り来たりの「弓矢」であるからである。

これからが正念場!

 以上、くどくどと支那の俚諺を記述したが、要は我々がいま進めている党確立の運動は、まさに「一期一会」遣り返しのきかぬものだということだ。

 周知の如く、近年「既成政党」とりわけ保守・自民党への不満が嵩じて、「保守・民族派」の中から『真正保守政党』を名乗って、選挙戦を戦った「組織体」が少なからずあった。しかし残念ながらその大方は健闘むなしく敢え無く消え、大衆の記憶の外にある。

 原因は端的に言って、その「志」は多とするも、実は彼らのそれには、本来の「保守政党」たるの要素・条件が具備されていなかったからであろう。右のそれを兼備した「政党作り」の「組織体」の存在を寡聞にして私は知らない。烏滸がましい言い方になるが、それを兼備した「真正保守政党」は我が党を措いて他には全く見当たらないということである。

 因って以て、我らの責務は極めて重かつ大ということになる。それは決して手前味噌に大仰に壮言しているのではない。

 実は、多くの保守・民族派と称する陣営の中に、我が党の存在を知り、その行動及び行方を注視している有志が大勢いると聞く。それは恐らく、我が党のそれを「純正保守政党」と評価し、さしずめ「モデルケース」としてみつめているのではないか。

 それ程に我が党は、かつて誰も行い得なかった、まともな「保守政党作り」を行って来たということだ。

 よって保守・民族派陣営においての文字通り「政党作り」の試金石となり得る。自惚れで物を言っているのでは決してない。またそれだけに、これがもし失敗に終わるようなことがあれば、世間から「それ見たことか!」と言われ、「保守・民族派」による「政党作り」は、所詮は素人たちの「絵空事」だったと冷笑されるに違いない。

 更に問題はそれだけではなく、我々のこのような生粋の「維新派」による「保守政党作り」は今後、所詮は「無理な相談」だとして、恐らく二度と再び行われなくなるに違いないということだ。

 その意味においても、我々のこの運動は、多くの保守・民族派など「維新陣営」に対する責任が如何に大であるかは贅言を要さない。

 かくして我が党は一昨年「新政治勢力」として結党し、極度に左傾化した自称「保守」の自民党や、国籍不明の各種左翼政党に真正面から挑戦しているのだ。そしていま来年の参院選を戦うべくそれの準備に全力を注いでいる。まさにこれからが我らの正念場である。

 従って来年の選挙戦は、例の話の如く「一期一会」であって「千期万会」ではない。決して安易に「二の矢ある」と思わず、勇奮敢闘せねばならない。

(初出・平成9年8月)

山崎幸一郎先生略歴

 大正8年10月28日、茨城県水戸市に生誕。明治大学卒。昭和19年に帝国陸軍水戸歩兵第二連隊として満州に出征。戦後シベリア抑留より帰還し愛国運動に挺身。里見岸雄博士の日本国体学会に参画。草地貞吾先生と共に「日本民族覚醒の会」を主宰。日本防衛研究会理事。二宮報徳会顧問。「維新政党新風東京都本部」初代代表となり、党名「日本国民党」を発案。愛国陣営に幅広い交友と人脈を持ち、多くの後進を育成。平成12年2月22日に永眠。