「保守」の軽佻浮薄な皇室批判に異議あり 眞子内親王殿下ご成婚万歳!(村田春樹)

 明治26年5月、皇太子(13歳)の婚約が決まった。お相手は伏見宮禎子女王(7歳)である。家柄美貌性格知性すべて他の候補の姫君たちを圧倒していた。32年3月、女王の肺に異音ありとの診断があり、宮中の元老重臣侍医団激論の末、侍医団の強い主張を容れ、天皇は破談と言う苦渋の決断を伏見宮に伝えた。伏見宮父娘の胸中はいかばかりだったろうか。天皇は失意の女王にいたく同情し、金五万円(時価一億円か)を下賜された。

 その年8月、九条家の節子姫に皇太子妃が決定し、翌33年ご成婚、34年4月29日に皇子が誕生したことは周知のとおりである。この間、天皇は禎子女王の縁談に心を砕き、女王は山内豊景侯爵に降嫁した。

 35年皇太子妃節子殿下は二人目の皇子(後の秩父宮)をご出産。その祝いに、侍医の岡玄卿が天皇に拝謁、祝辞を述べた。その際、岡は「山内家に嫁した禎子女王はいまだに孕まない。(岡の主張の通り)皇太子妃内定を取り消して本当によかったですね。」と述べた。しかるに天皇は岡の言を遮って。「禎子嫁して一年余、なお孕むこと無きも、これ禎子一人の責任とは言えまい。汝の言うところ甚だでたらめである。」と天機ことのほか斜めであった。(明治天皇紀より村田意訳)天皇は失意の禎子女王にここまで同情していたのであり、私はこのやさしさに感銘を受ける。(余談だが禎子女王は長命だったが一子も産まなかった)

 大正10年、皇太子妃に内定していた久邇宮家の良子女王(17歳)の家系に色盲遺伝子ありとして、山縣有朋等が婚約破棄を言い出した。所謂宮中某重大事件である。しかし皇太子と良子女王の教育係だった杉浦重剛らは、良子女王に深く同情し「婚約破棄したら年少の女王は自死を選ぶかもしれぬ。」と、破棄に強く反対した。結果的に婚約は破棄されず、色盲の遺伝もなかったのである。この明治と大正の二度にわたる婚約破棄騒動を、一般の国民は全く知ることはなかった。

 翻ってこんにちの眞子内親王殿下の御婚約についてはどうだろうか。ワイドショーの格好の話題となってしまっている。皇室は「開かれる」どころか、開かれ過ぎて天から転げ落ち、反日メディアによって愚民の蹴り弄ぶボールになってしまっている。私は不遜極まりないが、眞子内親王殿下に禎子女王や良子女王と同様に深く同情申し上げる。同じ年頃の娘を持つ親の心境はいかばかりであろうか。仮に親戚知人にこのようなことがあれば、同情し見て見ぬふりをし、静かに解決を祈るだろう。ところが愚民ばかりか、尊皇家と自他ともに認める方々が、恰も皇室参与にでもなったかの如く、そろって婚約反対を叫んで居酒屋で口角泡をとばし、若い二人を居丈高に批判し恍惚となっている。あろうことかお相手の男性を朝鮮人認定して喜んでいる始末である。今は静観こそ尊皇家のたしなみではないのか。もとより憎むべきは「スクープ」であり、私はできれば不敬罪の復活、最低でも「貴」人情報保護法の制定を心から望む。しかし不敬罪が復活したら、共産党より先にわが業界人が逮捕されるだろう。それほどひどい皇室、特に秋篠宮家批判が業界内を奔流しているのだ。眞子内親王殿下は令和2年11月に「結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択」とおっしゃっている。要は「死んでも結婚したい」ということだ。今時珍しいこの一途な恋を、私は貴重なものとして尊びたい。御降嫁の際は、私は二重橋前に一人佇立して、喉も裂けよと叫ぶ「ご成婚万歳万歳万歳」。

(今さら聞けない皇室研究会顧問 村田春樹)

村田春樹

村田春樹氏著書紹介

『今さら聞けない皇室のこと』

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刊・展転社1430円

170頁