先人を偲ぶ 第五回 草地貞吾先生

 草地貞吾先生は、明治37年5月28日に大分県に生まれられた。

 旧制大分県立宇佐中学校(現在の宇佐高校)卒業後は陸軍士官学校に進み第39期を卒業し、大日本帝国陸軍軍人となる。

 大東亜戦争開戦の昭和16年には支那派遣軍参謀となり、大陸に出征。終戦時には、満州で関東軍作戦課主任参謀として、日ソ中立条約を破棄して侵攻してきたソ連軍と対峙。このソ連侵攻の混乱の中で、妻と二人の子が満州からの引き上げに際して病に倒れて亡くなっている。

 日本の終戦にともない、ソ連に捕虜となりシベリアに抑留される。関東軍参謀であった草地先生は、ソ連から「強制労働25年の判決」を一方的に受ける。

 シベリア抑留中、ソ連は日本兵捕虜に対して強制労働と共に、共産主義思想教育をおこない、日本兵らに「転向」を迫るが、草地先生はこれを一切拒否。ソ連側から東京裁判への証人としての出廷を求められても拒否。

 酷寒の地で強制労働と粗末な食事で、体力的にも精神的にも限界寸前の日本兵の仲間たちに、神話、記紀万葉から連綿と続く日本の歴史と誇りを説き、信念を曲げないように励まし続けた。

 草地先生の博覧強記な知識と強靭な精神力、そして何よりも強い愛国心のなせる業というべきだろう。

 抑留から11年経った昭和31年、復員して日本に帰国する。

 帰国後は、京都産業大学寮監長、国士舘高校の校長などをつとめ、青少年の愛国教育、愛国者の後進の育成にあたった。

 さらに、我が党の初代代表であった山崎幸一郎先生と「日本民族覚醒の会」を主宰し、活発な愛国運動を展開し、愛国運動家を指導した。

 平成9年には、鈴木信行代表が団長をつとめる靖国神社清掃奉仕団を支持し、「靖国神社第清掃奉仕第十回記念 義烈千秋」と書いた書を寄せてくださっている。

 当時、若干32歳の鈴木代表が靖国神社清掃奉仕団の団長を務めることには、「若すぎる」「有名人に代われ」という声が絶えなかったが、草地貞吾先生から鈴木代表へ「靖国神社をお願いします」と、お言葉をくださっている。

 平成7年、国会では「植民地支配や侵略行為がアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、反省の念を表明する」という戦後50年決議を採択。

 草地先生らは、こうした亡国自虐史観への対抗と、正しい歴史認識を後世にとどめるべく、大東亜戦争の意義を伝える碑の建立を決めたとされる。

 石川県金沢市にある石川護国神社の「大東亜聖戦大碑」の建立委員会委員長となり、碑の建立に携わった。

 平成12年8月に「大東亜聖戦大碑」は千人の参加者を集めて除幕式をおこなった。


 式で草地先生は、碑に銘として刻まれた自らの和歌「大東亜おほみいくさは 万世の 歴史を照らす かがみなりけり」を朗々と読みあげられたという。


 それを見ていた人は、「大東亜戦争に殉じた仲間たちや日本の歴史の全て背負って、生涯をかけて戦後日本と戦い続けてきた草地先生の万感の思いがつまっているように感じられた」と語っている。

 「大東亜聖戦大碑」の完成を見届けるようにして、草地先生は平成13年11月15日に亡くなられた。

 葬儀は信濃町の千日谷会堂で開催された。鈴木代表も葬儀会場の救護警備要員として、準備段階からお手伝いをしたという。