平成期における「天皇陛下ご訪中」を振り返る(山本和幸)
習近平国賓招聘に隠れる「論点」
「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定義された天皇は、変わらず日本人にとって欠かすことのならない精神的支柱であることは疑う余地はない。このことは、昨年の御代替わりを顧みても明らかだ。世界では比類無き皇室に対しては世界からの関心事も高い。国内世論と国際世論への影響力の高さ。だからこそ、中国共産党にとって平成四年の「天皇陛下ご訪中」の実現は悲願だった。
昭和53年に来日した鄧小平は中華人民共和国の指導者として、昭和天皇に初めて拝謁を行った。これを皮切りに、中国共産党指導部は「天皇陛下ご訪中」を求めていたが、昭和天皇崩御遊ばされ、平成の御代が始まった。平成元年はその字義通り冷戦終結が進んだ年だったが、中国でも民主化運動が活発になり、6月4日、天安門事件が発生した。紛れもなく中国共産党は自国民によるデモを人民解放軍という武力で鎮圧、大多数の死傷者を出した。世界は一斉に制裁を発動し批判を強め、中国は孤立した。それからまもなくソ連は崩壊。残る共産主義国家として体制維持を図る中国共産党は、国際社会からの包囲網を破る突破口を「天皇陛下ご訪中」に見出した。
結果的に反対意見を押し込み、「天皇陛下ご訪中」は強行された。その8日前、平成4年10月15日に行われたご訪中に際しての天皇陛下の御会見で、「天皇陛下ご訪中」に対する反対意見があったことについてどうお考えかと記者に尋ねられ、こう述べておられる。
「言論の自由は、民主主義社会の原則であります。この度の中国訪問のことに関しましては、種々の意見がありますが、政府は、そのようなことをも踏まえて、真剣に検討した結果、このように決定したと思います。私の立場は、政府の決定に従って、その中で最善を尽くすことだと思います」
極めて意味深長であり、御叡慮が滲み出ておられるものと拝察する。
その後も上皇陛下と中国にまつわる問題はあった。平成21年、当時の民主党政権は、国家副主席だった習近平の要求を呑み、「一ヵ月ルール」に反すると抵抗し、職責を賭して陛下の尊厳を訴えた羽毛田信吾宮内庁長官を叱責してまで、上皇陛下との御引見にこぎつけた。この時は当然、国賓ではなかった。宮内庁と外務省では、一ヵ月前までに正式な書面での手続きを求めることは、なぜか。現在の上皇陛下のお体を慮ってのことでもあるが、時の政権の思惑に絡め取られないための仕組みであろう。外交や国の大小ではなく国際親善を旨とするものだからだ。このルールは自社さ連立政権時代の平成7年に定められたものであった。
長く王朝を戴き、血統主義の観念が強い中国人民にとっても「天皇」への意識は高いといえる。当時の習近平にとってみれば、次期国家主席に向けて、国内世論に向けて自らの権威を高める思惑があったことだろう。
中国発の新型コロナウィルスの蔓延でパンデミック寸前となってもなお、習近平国賓招聘について菅官房長官は「日本から延期を求めることは想定していない」(2月5日官房長官会見)と述べるほど、安倍政権は前のめりである。国賓招聘に隠れる論点として、その答礼として「天皇陛下ご訪中」が必然的に求められることだ。
報道によれば、中国外交トップの楊潔篪中国共産党政治局員が今月末に訪日すると日本政府に伝達していると日本政府関係者が明かしたとある。我が国の国家安全保障局(NSS)の北村滋局長と会談、習近平国家主席の訪日について協議する。北村滋は知る人ぞ知る人物だ。第一次安倍政権では首相秘書官を務め、民主党政権以来、内外情報の収集・分析を行う内閣情報調査室(内調)のトップ、内閣情報官を務めた。面会数で首相動静をみても最も登場回数の多い人物だ。安倍政権の最側近が動く「首相案件」であることは明らかであり、「桜を見る会」よりも当然、首相にとって意味を持つものだろう。国会で議論すべきはここではないか。
今回、平成4年に宮沢内閣が強行した「天皇陛下ご訪中」について振り返った。現在では、さらに問題は進展し、香港情勢、ウイグル弾圧の国際的な非難が世界では続いている。また、我が国にとっては、尖閣諸島の接続水域を荒天にならない限りほぼ毎日、中国公船が航行しており、領海にも度々侵入している。これらの圧迫行為を踏まえても、答えはやはり「NO」だ。
わが党の先輩方はじめ多くの人々がかつて「天皇陛下ご訪中」反対運動を繰り広げた。この志を顧みて、これに連なる者として習近平国賓招聘反対運動に取り組んでいきたい。
山本和幸(日本国民党本部事務局次長)