新元号令和を寿ぐ 典拠を漢籍から国書にした大きな意義

新元号に反応した支那の直感

 周知の通り新元号が「令和」とされた。これまで元号は支那の古典を典拠として決められてきたが、この度、史上初めて漢籍ではなく、国書である『万葉集』を典拠として決められた。我が党としては元号の事前公表には反対の立場だが、この点については、我が国建国の理念とも適い、大きな意義があるものと高く評価し寿ぎたい。

 今回の新元号に関する支那のメディアの反応については発表当日、時事通信が次のように報じている。

 「中国メディアは1日、『日本の新元号、ついに”脱中国”』と伝えた。共産党機関紙・人民日報系の環球時報電子版は『新元号の開始で日本の政治経済のムードが大きく変わるかもしれない』と報じた」

 日本のメディアが新元号が国書由来であることを、さらっと報じたのに対して、敏感な反応であるが、直感的で鋭い見方であるとも言えよう。

日本建国の理念は脱中華文明

 我が国建国の理念であり、日本文明成立の過程は、聖徳太子による隋への国書、白村江の戦い、『日本書紀』の成立、東大寺盧舎那仏像建立から、近代では福沢諭吉による『脱亜論』発表にいたるまで、一貫して中華文明との訣別、つまり「脱亜」にあった。外の知識や技術は借りても決してそれに屈したり組み込まれる事なく、毅然と独立して対等に渡り合う事を目指し続けてきた。そうした姿勢を指して早くも中世には「和魂漢才」が熟語として表わされている。

 この日本の建国と文明成立の精神は、黒船来航後の明治維新を経ての急速な近代化においてもそうであった。明治においては「和魂洋才」の用語となって表れたが本質は全く同一である。外の技術や知識を学んでも決してそれに染まらず、それらを駆使して、より美しく偉大なものを創造し続けてきたのが日本の真姿である。

グローバリズム・アジア主義と決別

 これらの事実を見過ごしたり、あるいは誤解した者たちが「日本はグローバルにならなければいけない」と馬鹿な事を言ってみたり、「脱亜はケシカラン。日本はアジア主義でなければいけない」と、もっと馬鹿な事を言ってみたりするのだ。国境なき世界を夢想するグローバリズムは新時代の敵であるし、支那朝鮮を友好関係構築が可能な「同胞」であると錯覚したアジア主義などは前時代の妄想の産物である。どちらも我が国建国の理念に反する物であり決別すべきだろう。

 そうした意味で、今回の新元号が、漢籍ではなく国書を典拠としたのは、建国の理念に基づいて新時代に日本が進んで行く大きな転換点となるだろう。

 覇権を強める支那と、狂気の反日を極める朝鮮との対峙がますます重要課題となっていく我が国にとって、令和元年が「脱亜元年」となる事を期して行きたい。

(しんぶん国民編集部)