【先人を偲ぶ】第二回 松村久義氏

松村久義氏

松村久義氏

「寮の職員の先生が『凄いのあるからみんなで見よう』って誘って来て見たのが初めてだったね」と、ある党員はそう振り返る。

YouTubeも無かった時代のインターネットに上がっていた動画には、有楽町マリオン前で街宣車の上から「ゴキブリ支那人を叩き出せ!」と連呼する人が映し出されていた。時に「ヘイトスピーチ」なんて言葉も存在しなかった平成16年、このマイクを握る人こそが当時の東京都本部代表だった松村久義氏である。

松村氏は昭和24年2月24日に東京都に生まれた。学園紛争真っ盛りの時代に早稲田大学政治経済学部に進学し、民族派学生組織である早稲田大学國防部に参画する。その仲間には三島由紀夫氏と共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決された森田必勝氏がいた。

早大国防部 前列中央が松村氏、左隣は森田必勝氏

前列中央が松村氏、左隣は森田必勝氏

『田原総一朗の遺言 ~全共闘/学生右翼~』(昭和42年撮影)には、左翼学生・マスコミに対して「何が戦争責任だよ!何が侵略だよ!」と勢いよく食ってかかる若き日の松村氏の姿が映っている。

松村氏はとかく逸話が多い。その全部を掲載するのは紙幅の都合と、大人の事情で難しいがいくつか人柄が偲ばれる話をご紹介したい。

平成17年、当時の小泉内閣によって女系天皇を認める皇室典範の改悪策動があった折、松村氏は「そんな事が起きたら国会にトラック、街宣車で突入する」と強硬に主張された。「いや、そんな事をしたら選挙が…」と党幹部が押し止めようとするも、「馬鹿野郎!国体と選挙、どっちが大事だと思ってんだ!」と一喝。これには皆沈黙である。

しかし、我が強いかというとそうでもなく、松村氏本人は「核武装反対論者」であったが、党の方針として核武装が決められるとそれに異を唱える事はなかった。運動の話をしても、抽象的観念論ではなく、「いくら金がかかり、どれだけ人員が必要なのか」を問い直し、夢物語のような話を嫌った。そういう点では現実的視座と組織感覚に長けた人でもあった。

松村氏は日本と共に山を愛した。世界中の高峰に挑戦し、何度も登頂に成功している。その登山の際、左手の小指を凍傷で失った。これが本人の風貌や言動とあいまって、よく「そちらの筋の人」と勘違いされてしまう事も多かったが、松村氏本人は英語、支那語が堪能で、いつも事務所では英字新聞を読み耽る博識の持ち主だった。

そして何よりも何事にも前向きな人だった。晩年、癌を患い寝たきりになった時、病院へ見舞いに訪れた党員たちが具合を訊ねると、「いいもんだなあ。自分でわざわざ歩いたりしなくて済むし楽でいいよ」と笑っていた。そして「ちょっと車椅子押してくれよ」と病院の外に出て大好きなタバコを深々と一服。「あー、美味え!」とやるのだった。これには皆も笑ってしまった。そんなもので、松村氏を知っているという人と会うとその人との距離がわかった。

「いつも松村さんにはお世話になっていました。本当に博識で立派な方で~」これは遠い人だ。

「まったく松村さんは本当に乱暴者でハチャメチャで~」これは近しい人だ。

そんな松村氏は、最後に見舞った鈴木信行代表に「君が一番だから頑張れ」との言葉をかけて、ぐっと親指を立てて見せた。

そして、平成20年6月17日、癌のため永眠、わずか59歳。

晩年、集会で演説に立ち語った言葉が今でも党員たちの記憶に残っている。

「(運動なんかせずに)我々は楽をしようと思えばもっと楽が出来た。だけれどもこの道を選んだ。その意味をよくよく噛みしめてほしい」

平成8年の松村氏(右)と鈴木代表(中央)

平成8年の松村氏(右)と鈴木代表(中央)