「正しいこと」と「できること」 (金友隆幸)

 過日、人からの誘いで自分としては珍しく講演会に参加して講師の話を拝聴する機会があった。

 講演は我が国の憲法に関するもので、講師はあるべき日本の姿を語り、自民党などの既成政党が発表している憲法改正草案への批判をおこない、「こんな憲法改正なら認めてはいけないし、我々は憲法改正反対運動をしなければならない」と熱弁していた。

 すると質疑応答となり講演を聞いていた参加者から「先生のおっしゃることはごもっともだと思うが、そんな事を言っていたらいつになったら憲法は改正できるんですか? いつになったら拉致被害者、竹島は取り返せるんですか? そのあたりを教えていただけますか」と聞かれ、講師は答えに窮してしまった。講師の指摘することは我が国の歴史や国柄、憲法史を踏まえると実に「正しいこと」ではある。

 しかし政治的可能性や運動論として見た時にはどうだろうか。国会で「憲法改正」が発議された時に、その改正案の些末な欠点をあげつらって右派陣営が共産党らと一緒になって反対運動していたのでは、憲法改正の実現は遠ざかるだろうし、世間からもその政治感覚を疑われてしまうだろう。つまり「正しいこと」と「できること」は全く違うものであることが、この講師と質問者のやり取りで改めて理解させられて感心してしまった。

 政治運動にはおびただしい数のスローガンが掲げられている。勇ましいものや大層なものも多い。そのスローガンの内、「正しいこと」と「できること」の峻別がどれほど出来ているのか考え直させられるものである。これは先の憲法改正論に限ったことではない。出来もしないことや観念的空想論を主張し、それに他人を巻き込むことほど迷惑なことはない。

 たとえば我々が「パチンコを全面禁止しろ」と主張していたとする。そこに議会で「でもパチンコ店の従業員たちにも生活があり一気にそんな事は難しいから、まずは三店方式の換金を禁止しましょう。営業時間も短くさせましょう」という流れになった時、「全面禁止じゃないならそんな物には反対だ」と駄々をこねていたのでは世の中いつまで経っても変わるまい。

 もちろん極端な主張やスローガンも必要である。「外国人全員追放」と主張すれば確実に「ヘイトだ、極右だ」とレッテルを貼られて叩かれるだろうが、「移民の受け入れはやめておこう」という意見は相対的に「中道」になる。「外国人追放」と訴える勢力がいなければ「移民反対」が「ヘイト、極右」扱いをされてしまう。そうした常識の枠組みを広げて切り開くための「役割分担」と割り切ったスローガンは運動としても必要だろう。

 まだまだ我が国で我々は圧倒的少数派であるという現実に改めて思いをいたす時、「正しいこと」に固執するあまり、「できること」を放棄する愚を犯してはなるまい。どんなに小さなことでもいいから「できること」を積み重ねていくことでしか、我々の運動の前進はないだろう。

日本国民党情報宣伝委員長 金友隆幸

(しんぶん国民 平成31年1月号より)