神武天皇建都の詔を読み直す

日本国民党情報宣伝局長 金友隆幸

 

勝手に作られた「八紘一宇」
 
 二月十一日の紀元節は、神武天皇が橿原の宮で即位され話に基づき、日本が建国された日となっている。
 
 『日本書紀』では、神武天皇即位建都の詔として、
「…上は則ち乾靈の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正しきを養いたまいし心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて宇と為すこと、亦た可からずや…」(原文は漢文)
 
 この一節が明治になると「八紘一宇」の四字熟語にされ、「八紘とは全世界」「宇とは一つの家」であり、「神武天皇は世界統一、全人類一家を宣言していた」という解釈が独り歩きを始める。この「八紘一宇」という概念は明治時代に日蓮宗系の新興宗教「国柱会」の田中智学によって提唱され始めたものだ。
 
日蓮主義思想が先にあっての詔勅曲解
 
 田中智学は、日蓮宗の教学の思想に基づき「世界はただ一国なるべし」という強烈な理想を持っていた。
 
 世界が一つの国になれば戦争も無くなり、理想の社会になる。世界統一の中心になるのは日本の皇室だ、といった右翼と左翼の短所を合体させたような空想的考えだ。
 
 それに基づいて『日本書紀』に記された「神武天皇即位建都の詔」を勝手に解釈して「神武天皇もそう宣言していたぞ。八紘一宇、世界統一が日本の建国理念だ」と大騒ぎを始めたものだから堪らない。
 
 そもそも『日本書紀』の原文を四字熟語にするなら「八紘為宇」となるが、それを田中智学は「世界統一」ありきで「八紘一宇」にした。日本史上最大の「詔勅曲解」もいいところだ。
 
 田中智学は宣伝・煽動の才が強く、運動量も凄まじかった。「狂人走れば不狂人も走る」の言葉のように、昭和十年代までの時代状況、国際状況もあいまって、「八紘一宇」は大繁殖していき、政治家や軍人、教育者も「八紘一宇」を呼号するようになり、大東亜戦争の終戦を迎える。
 
昭和天皇が否定しても残った「八紘一宇」
 
 終戦後、「八紘一宇」は、GHQによって使用を禁止され、急速に日本社会から姿を消していった。
 
 昭和二十一年には、昭和天皇が「新日本建設の詔書」によって、
「日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念」として、暗に田中智学発の「八紘一宇」の概念を否定されている。
 
 しかし、「八紘一宇」は日本の右派陣営の中で、「大東亜戦争肯定論」や「朱子学思想」とゴチャゴチャに混ざり合いながら根深く残り続けた。
 
 そして、現代日本において、移民問題、外国人問題に対して右派が抗議の声をあげると、「八紘一宇」を妄信する綺麗事保守や「アジア主義」を標榜する者たちから「排外主義は八紘一宇に反する」という、お決まりの批判が出るという奇妙な事態が起きている。
 
今年のミス日本を巡っても噴出
 
  一月二十二日、「第五十六回ミス日本コンテスト」で、ウクライナ人の両親を持ち、五歳で日本に移住し、二年前に日本国籍を取得した女性がグランプリになったと発表された。これに対して、「血統的にも、出生地も日本ではない人がなるのはおかしい」「日本人を代表する美しさを持つ人ではない」と疑問を呈する声があふれた。在日外国人からも「多様性ではなく大事な区切り壊して秩序無くしてるだけ」「一種の侵略」と指摘が出た。
 
 ところが、そうした声に対してツイッター上では保守や右派を標榜するアカウントが「日本は八紘一宇だ」と反論するという奇態を呈した。
 
グローバリズムに抗う力を奪う
 
 現代日本のナショナリズムが、古いナショナリズムによって拘束具をかけられたような状態になっている。
 
 それどころか、これからますます日本をグローバリズムに飲み込み、「移民国家」「多民族社会」に改造しようとする意図に抗する力を奪っている。
 
 今まで左翼が「差別だ、ヘイトだ」と言って日本人を弾圧してきたが、これからは一部自称愛国者が「八紘一宇だ」と言って日本人の声を鎮圧しようとするかもしれない。私はこれを「八紘一宇の呪縛」と呼びたい。
 
 このような事に神武天皇の詔勅が歪曲されて利用されるのは、看過ならないので、今一度、神武天皇建都の詔をしっかりと読み直しておきたい。
 
「八紘」の語源は中国の『淮南子』
 
 まず、「八紘」が「全世界」を意味する根拠は存在しない。もしあるならば、私に教えて欲しい。
 
 そもそも「八紘」なる語の初出は、養老四年(西暦七二〇年)の『日本書紀』ではなく、西暦紀元前二世紀に中国の前漢時代に書かれた『淮南子』という本だ。前漢の武帝時代に淮南国の王であった劉安が全国から集めた学者に様々な知識を記述させている。その中で地理を説明した「地形訓」という部分に出て来る。
 
「九州之大、純方千里、九州之外、乃有八殥、亦方千里」「八殥之外、而有八紘、亦方千里」「八紘之外、乃有八極」
 
 つまり漢人(中国人)が居住する領域が「九州」で、その外周を千里にわたって「八殥」が取り巻いており、その外周に「八紘」があり、その外側には「八極」があるという地理観だ。この時点で「八紘=全世界」の仮説は崩れる。
 
 この地理観を『日本書紀』が成立した時代に当てはめると、おおよそ次の図のようになる。
 
 
 さらに、『日本書紀』文中にある「乾霊」「六合」「八紘」といった言葉や、天地開闢や素戔嗚尊が高天原で暴れる話なども『淮南子』の記述が下敷きになっていると見られている。
 
 「掩」と「宇」の漢字の用法・用例も『淮南子』を参照にすると、「八紘一宇」なる言葉で喧伝されている物とますます遠ざかる。
 
『日本書紀』成立の時代背景で読み解く
 
 神武天皇即位建都の詔は、『日本書紀』には記述されているが『古事記』には全く記されていない。
 
 『古事記』が日本語の文脈を活かした一字一音表記の変体漢文で書かれた皇室の私史の体裁であるのに対し、『日本書紀』はほぼ純漢文体で編纂され、国の正史として中国をはじめ外国人が読む事を前提に作られている。
 
 この点が『日本書紀』における「神武天皇建都の詔」を読む上で重要な視点だろう。
 
 日本が建国以来抱えていた課題は二つある。国内諸部族の統合と、対外的には中華冊封体制からの脱却だ。
 
 その両方の課題を解決しつつあった斉明天皇六年(六六〇年)に大事件が起きる。
 
 中国大陸の唐と、朝鮮半島の新羅の連合軍が朝鮮半島南部の百済に侵略し、百済が滅亡する。日本は百済救援軍を送るが、白村江の戦いで壊滅的な敗北を喫する。唐・新羅連合軍による日本侵攻の危険が高まった。
 
 これを受けて時の天智天皇は、防衛拠点の大規模な増強と、それまでの豪族支配を改め、唐の律令制を導入して強力な中央集権国家建設に邁進していく。
 
 天智天皇崩御の後に、皇位を巡って壬申の乱が起きて、即位した天武天皇によって国号を「日本」君主の号を「天皇」と定め、『日本書紀』の編纂が命じられる。
 
 つまり対外戦争「白村江の戦い」と内戦「壬申の乱」という、二つの戦乱の直後、先にあげた建国以来の課題の解決に取り組まねばならなかったのが、当時の時代状況だった。
 
日本民族独立宣言
 
 この時代状況に『淮南子』地形訓の地理観を当て嵌めれば、中国の唐が「九州」であり、朝鮮の新羅が「八殥」であり、日本が「八紘」となる。
 
 「掩」という字義には、「閉じる」「遮る」「保護する」「かばう」といった意味がある。
 
 「宇」の意味は曖昧だが、中国にあっては一つの文明圏を指すものとしても使われ、当時では仏教発祥の地であるインドを指して「西宇」と記している。
 
 これらの点を踏まえると、『日本書紀』の神武天皇即位建都の詔は、日本国内の諸部族を日本民族へと統合することで、中国「九州」、朝鮮「八殥」から、日本「八紘」を明確に独立して防衛する。
 
 そして、日本を中国と並ぶ独立した文明圏である「宇」たらしめんとするものだ。これを漢文の『日本書紀』で記したのは、中国に対する「日本民族独立宣言」と読み直すことができる。
 
 それが、字義、時代状況、その後の歴史事実として見ても全て矛盾無く自然だ。
 日本人は田中智学の妄想の産物たる「八紘一宇」の呪縛を捨てて、神武天皇即位建都の詔を素直に読み、「八紘」たる日本を侵略者から守ろうではないか。